「はじめの1歩」~宮滝について
北に向かう道は飛鳥、南は熊野灘へと続き、紀伊半島のほぼ中央に位置する、奈良県吉野郡吉野町「宮滝」は、大台ケ原に源を発する吉野川に面し、万葉の昔から数々の歌に詠まれた風光明媚な山間の景勝地です。
台地面積約12ha、宮滝の魅力は地上だけに留まらず、地下深く、かなり広範囲から、異なった年代の遺物が数多く出土。なかでも、古代史最大の内乱と言われる「壬申の乱」、その挙兵地となった「吉野宮」がここ宮滝にあったことを裏付ける遺構の存在は、太古のロマンに想いを馳せる多くの人々を魅了しています。
そんな現代の秘境とも言うべき場所をご案内いただくのは、ここ宮滝で生まれ育ち、歴史はもちろん、宮滝のことなら何でも知っている、地元愛にあふれた『梅谷醸造元』 梅谷清嗣さん。
日本の歴史が動いた舞台や万葉集に名前が登場する名所など、宮滝に多数点在する見所を巡ります。
「吉野歴史資料館」~その1 宮滝・縄文時代編
「吉野歴史資料館」は、宮滝遺跡で発掘された出土品を通して、この地域における生活の移り変わりや文化を学ぶことができる町営施設です。今回、梅谷さんが連絡を取ってくださり、同館の中東さんが宮滝の歴史について概要をご説明くださいました。
「宮滝に人が住み始めたのは奈良盆地より早い、いまからおよそ1万年前の縄文時代早期になります。当時は鹿や猪などを狩ったり、木の実をとったりして生活していましたので、山の方が便利が良かったんでしょうね。矢の先に付け、狩りに用いた石の鏃(やじり)や、網を仕掛けて魚をとる時のおもり、石錘(せきすい)などが、土でできたお鍋(=縄文土器)などとともに出土しています。」と中東さん。
それまでずっと、調理法は焼くだけだったので、消化のいい柔らかいお料理を作ることができるお鍋の登場は画期的。アク抜きによる毒消しも可能になって、食べられるものが一気に増えたとか。さらにお鍋がないとお米が炊けないという点で、後にはじまる稲作にとっても大きな布石となったそうです。縄文土器が出現すると縄文時代になるというのも納得できますね。
また、縄文土器のデザインは地域や年代別に色々と異なっていたとか。宮滝では、縄文時代後期に近畿でつかわれたカワニナと言う巻貝でつけた文様が特徴の宮滝式土器がはじめて出土。当時、貝を使ったデザインはちょっとしたブームで、北は東海、南は中国地方の一部まで広がっていたとか。一方で、遠方でブームになった土器が宮滝でみつかっているなんてケースも。その遠方とは東北地方だろうとのことで、人づてにせよ、私達が想像するよりはるかに広い範囲での交流や情報伝達が縄文時代に行われていたようです。
「吉野歴史資料館」~その2 宮滝・弥生時代編
弥生時代は全国的に稲作が始った時代で、吉野川はお米の穂摘みに必要な石包丁の代表的な産地でしたが、なぜか、ここ宮滝からは石包丁自体がほとんど見つかっておらず、稲作は行われていなかったとか。その理由は充分に食糧が手に入る山を開拓し、収穫まで時間がかかるリスキーな稲作を、わざわざしようと思う人がいなかったからではないかと、推測されているようです。ただ、米粒跡が残る土器の出土もあり、作ってはいないけれど食べていた形跡が認められることから、ひと山越えた穀倉地帯の明日香など奈良盆地で物々交換を行い、お米を入手していた可能性があるそうです。
さらに、中東さんの解説によると「弥生時代にうまれた土器で、次の時代に影響を与えたのが貯蔵具の"壷"です。弥生時代以前は穴を掘って地下でものを貯めていたようですが、これだとものがすぐに腐ってしまいます。しかし、壷ならある程度の期間、貯めておける。その違いは大きくて、あの人はたくさん持っているのに、この人は持っていないと言う貧富の差や階級を産み出すことにつながります。このことはヤマト王権やヤマト政権などで知られる支配者の出現、つまり古墳時代へとつながる大きな要素であったと考えられるのです。」とのこと!
実は数学の次に歴史が苦手で、ほとんど興味を抱くことすらなく大人になった私ですが、ここ宮滝にきて、なるほど! と思うたび、どんどん歴史って、おもしろいなぁと言う気持ちが強くなってきました。学生時代の自分にも、聞かせてあげたいぐらいです(笑)
壷の登場により穀倉地帯であった奈良盆地は急速に発展。一方で、同時期に稲作を行っていなかった宮滝は徐々に過疎化していったそう。次に歴史の表舞台に返り咲くのは、飛鳥時代です。
「吉野歴史資料館」~その3 宮滝・飛鳥時代編
天智天皇没後、一度は出家し吉野へ下った皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が、皇子or皇太子・大友皇子に対して反旗をひるがえし、勝利した日本古代史最大の内乱「壬申の乱」。それは宮滝にあったとされる「吉野宮」から始りました。
そもそも弥生時代の終わりから古墳時代にかけて一度は過疎化した宮滝が、飛鳥時代、なぜ天皇の別荘地として選ばれたのでしょう?
「古墳時代、栄えていた奈良盆地はどんどん外来の文化を取り入れ、ある種外国化していました。一方、宮滝は時代の流れに取り残される形で手つかずのまま。歩いて半日もかからない山の向こうに、懐かしい日本の原風景が残っていたことでしょう。また、宮滝から望むことができる分水嶺の青根ヶ峰は、当時から水の神様が宿っていると信じられていた可能性が大きい。当時の天皇はお米が無事育つための降雨祈願なども仕事のひとつだったので、今風にいうと天皇にとってパワースポットになりうる場所としても良い条件がそろっていたのでしょうね。だからこそ、宮がおかれたのではないかと。さらには奈良盆地と比べると、吉野は地形・気候なども異なる。こういった様々な条件が合致して、それ以降、吉野は神仙が宿る神仙境として、あるいは都人たちが歌に詠む場所となっていきます。」と中東さん。
そして、「吉野宮」の正殿があったと推測される場所、まさにその真上 !! に建っているのが、何を隠そう『梅谷醸造元』さんなのです。お偉い先生方から、建物の下を掘らせて欲しいと言われることも1度や2度ならずあるようですが、そこはまだミステリアスな部分として、お楽しみは未来へ先送り。では、どうして、ここに宮があったとわかるのでしょう?
その根拠は、"池"にありました。数十回に渡る発掘調査の結果、現在、国道169号線を挟んで『梅谷醸造元』さんのちょうど正面にある駐車場から、飛鳥時代の池の跡が見つかったそうです。ですが、稲作を行わず、まして過疎化が進んでいた宮滝に用水池はいらず、また、用水池として使うにしては水深が浅すぎるのと、中の島を設ける必要がないことなどから考察すると、観賞用につくられた庭園の池である可能性が極めて高いそうです。さらに、池を維持管理するための土管が数十本出土していますが、いずれも同時代の土管と比べると形や大きさが明らかに異なり、最新の陶芸技術で特注した品をわざわざ運んできたと思われ、その点からもここに「吉野宮」があったと言う説が自然で、もっとも有力なのだそうです。
天武天皇が亡くなった後は、奥様である持統天皇が政治を引き継ぎ、夫との思い出の地として、またパワースポットとして、この地に30回以上、足を運ばれたそうです。
「吉野歴史資料館」~その4 宮滝・奈良時代編
奈良時代になると、天武天皇の血筋としては最後のひとりで、奈良の大仏さんをつくった人としても有名な聖武天皇が、「吉野宮」の少し西側に「吉野離宮」を造営。宮滝の美しい自然を愛でる宴が催され、多くの大宮人たちが訪れたそうです。
「そのなかのひとりで奈良時代の歌人、山部赤人が詠んだ『み吉野の 象山(きさやま)のまの 木末(こぬれ)には ここだも騒ぐ鳥の声かも』と言う歌の中にでてくる象山はいまでも、この資料館の窓から見ることができますし、弓削皇子が詠んだ『滝の上の 三船の山に居る雲の 常にあらむと わが思はなくに』と言う歌に出てくる三船山も、同じ窓から望むことができます。」と中東さん。
そうなんです ! 歴史の舞台として巡る宮滝に、さらなる彩りを添えてくれるもの。それが万葉集に代表される和歌の存在です。ここまで大変お世話になった「吉野歴史資料館」、そして中東さんにお別れを告げて、ここからは梅谷清嗣さんご案内のもと、歌にでてくる有名な場所や地元に伝わる逸話付きの見所などを巡っていきます。
「万葉歌と吉野川」~前編
南にある「吉野歴史資料館」から今度は北にある吉野川へ。旧伊勢街道(国道169号線)に面して建つ『梅谷醸造元』 さんの裏手にあたる道を歩き、吉野宮滝郵便局を右に折れると、右手に旧「吉野町立中荘小学校」、現「吉野野外活動拠点施設」、左手に旧「柴橋中学校」、現「宮滝河川交流センター」があり、ここで野生のお猿さんに遭遇するハプニングも ! 交流センターを管理されている元気な名物おばあちゃんに、飴ちゃんをいただき、建物の脇にある旧東熊野街道を下って、川辺へ急接近 !
途中の看板に「柴橋」や「甌穴」、「名号岩」などの簡単な説明が書かれていました。
「宮滝は"滝"と言っても水が垂直に落下する、いわゆる瀑布ではなく"たぎつ瀬"のことで、"たぎつ瀬"とは岩などで変化に富んだ川底の影響を受け、水がさかまいたり激しく流れる川のことです。吉野川の上流には、日本でもトップクラスの年間降雨量を誇る大台ケ原があり、いまはダムができていますが、私が小学生の頃は両親から"まくり水"に気をつけろと、よく言われました。このへんが晴れていても、上で大雨が降ると、川の流れが勢いを増し、簡単に持って行かれるからです。また、両岸に岩壁が迫り、複雑な入り組んだ流れをうみだす宮滝の地形は、江戸時代、上流で切った吉野杉を筏に乗せて運ぶ際の難所としても有名で、何人もの人がここで命を落としたことから、南無阿弥陀仏と刻まれた「名号岩」が3つ置かれています。」と梅谷さん。
『年のはに かくも見てしか み吉野の 清き河内の 激つ白波』
これは、723年、元正天皇の行幸に同行した宮廷歌人、笠金村が詠んだ歌で、「毎年こうして見たいものだ。吉野の清らかな河内に激しく流れる白波を」と言うような意味だそうです。
川岸を歩いていると途中、大きな落とし穴のような場所があり、梅谷さんが小さい頃は、そこに馬が埋められていると言われていて、子供心に、どうして馬なんだろう?と不思議に思われていたそうです。しかし、大人になって、太古の時代は今とは比べものにならないぐらい、権力と天災の結びつきが強く、雨を降らすには白い馬、その逆は黒い馬を埋める祈祷方法もあったことなどを知り、そういう意味だったのかなと理解できたそうです。
平らではなく斜めに岩肌が隆起したような川岸に、苦戦しながら歩く私たち取材陣一行とはまるで違う軽やかさで、すいすい移動される梅谷さんを追って、次は「百文岩」と「二百文岩」がよく見える場所へ。
「江戸時代、岩飛びといって、高い岩の上から川へと飛び込むショーみたいなものがあり、百文払ったら下の岩から、二百文払ったら、もひとつ上の高い岩から飛び込む様子が見物でき、それがこの岩の名前になりました。当時の様子はガイド本のはしりのような「大和名所図会」などにも描かれています。また、岩原の所々に見ることができる大小の穴は、ポットホールや甌穴と言い、吉野川の激しい水流に何万年もの間、さらされた岩が自然と削られできたもので、西日本一とも言われています。」と梅谷さん。
昔は岩飛びの名所だった宮滝ですが、時の流れとともに川の地形や性質も変わり、危険を伴うことがあるため、いまは飛び込みが禁止されています。
「万葉歌と吉野川」~後編
川辺へ降りる途中の看板に書かれていた「柴橋」は、旧東熊野街道をもう少し上流に向かって進み、ちょうど喜佐谷川が吉野川へと流れ込む、川幅の狭い場所に架けられていたもののことで、当時は松の丸太を橋桁にして歩み板を張り、柴垣で欄干を造っていたそうです。その名残で現代版の鉄橋も名前は「柴橋」のまま。ずいぶん立派になったその橋を渡り、少し下流の方へ行くと「宮滝展望台」に行き当たります。
「宮滝展望台」の下あたり、象(きさ)の小川が吉野川に流れ込むポイントが、「万葉集」にもよく詠まれている「夢のわだ」。なんとも言えず風流な響きの名前ですね。
『我が行きは 久にはあらじ 夢のわだ 瀬にはならずて 淵にもありこそ』
この歌は還暦を過ぎ、太宰府に赴任した大伴旅人が、吉野を懐かしみ詠んだ歌で、「私の赴任もそう長くはないだろう。夢のわだよ、浅瀬にならず、淵のままであっておくれ」と言う思いが込められているそうです。
最後にもうひとつ万葉集から。
『よき人の よしとよく見て よしと言ひし 吉野よく見よ よき人よく見』
この歌は天武天皇が吉野宮へ行幸した際に詠まれたもので、「昔のよい人が、よしとよく見て、よしと言った、この吉野をよく見なさいよ。今のよい人たちも」と言う内容で、それは、まさに、ここ吉野こそ、われらが原点となる土地であるとの思いの表れ。奈良大学文学部教授 上野誠さんの書で彫られた歌碑が、「吉野歴史資料館」のそばに建てられていました。
悠久の時を越え、太古の歴史が蘇る町・宮滝は、考古学的な観点で散策するもよし、万葉集を片手に歌碑やその歌に詠まれる名所巡りをするもよし。ただただ雄大な自然に癒される楽しみ方ももちろんアリと言った懐の深さと、掘れば掘っただけ何かお宝的発見ができそうな奥深さを秘めた場所でした。まだまだ、他にも名所、見所がたくさんあるようなので、それはまた次のお楽しみに。
そんなの待っていられない ! と言う方や、もっと宮滝について詳しく知りたい ! と思われた方は、宮滝に着いたら、まず『梅谷醸造元』 さんを訪れてみてください。運良く梅谷清嗣さんにお会いできれば、いろいろと地元ならではのお話も聞けるはずです。そして、お土産には、ぜひ吉野杉の大樽を使い、手間ひまかけてゆっくりと熟成された、まろやかで深い味わいのお味噌やお醤油をどうぞ。そのおいしさに、持統天皇を超える頻度で、宮滝を訪れるリピーターになることうけあいです。